ハワード・ヒューズ

このアメリカの実業界の大物は、映画制作者としても高く評価され、その後は記録破りのパイロット、そして航空業界の重要人物としてさらに有名になりました。
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ハワード・ヒューズが操縦するロッキード14Nスーパーエレクトラがニューヨーク、フロイドベネットフィールドに着陸。1938/7/14 14:34撮影
1905年-1976年
1938年7月、この空中最速の男はロッキード・スーパーエレクトラに搭乗し、わずか3日と19時間14分で世界一周飛行を成し遂げました。ハワード・ヒューズは、それまでの記録を4日近く縮めたのです。ヒューズと乗組員が給油のためパリ近郊のル・ブルジェ空港に立ち寄った際、スイスのロンジン本社はフランスの子会社から次のような電報を受け取りました。「ハワード・ヒューズの飛行機には、ロンジンの航空用クロノメーターとクロノグラフが特別装備されている」ヒューズは、北半球の周りを1万4,800マイル(2万3,818 km)飛行して、最終的にニューヨーク近郊のフロイド・ベネット・フィールドに到着しました。

ヒューズのロッキードに装備されたウォッチは、必要不可欠なツールでした。高速移動する飛行中の航法を促進すべく1938年に考案されたロンジン シデログラフは、通常用いられる常用時ではなく恒星時を時角、分、分(角度)で表示するものでした。恒星時は、太陽ではなく星を基準に地球の自転を計測するため、ナビゲーターは夜間や海上でも飛行機の位置を決定できたのです。現代的なGPS計器の時代が訪れる前のことです。ロンジンは当時シデログラフに製造できた最も正確なムーブメントを搭載し、さらにこのムーブメントを熱強化アルミケースに納めました。軽量かつ抗磁性を持つこの素材は飛行に最適だったのです。
ハワード・ヒューズは熱狂的な飛行家であり、自身の会社(ヒューズ・エアクラフト)で航空機を製造しました。1935年9月13日、ヒューズはカリフォルニアで流線型のH-1レーサーに搭乗し、陸上飛行機の最高飛行速度記録、352マイル(566 km)/時を打ち立てます。これを最後に、個人が製造した航空機によって最高飛行速度の世界記録が樹立された例はありません。1年半後の1937年1月19日、ヒューズは大陸横断最速飛行記録を更新します。ロサンゼルスからニューアークまでの無着陸飛行を7時間28分25秒で成し遂げたのです。飛行中の平均対地速度は、322マイル(518 km)/時という目覚ましいものでした。

ハワード・ヒューズは16歳で母を、18歳で父を亡くし、若くして孤独な境遇に身を置きました。1925年、若きヒューズは、石油産業向けのドリルを製造する父の会社を受け継ぎました。その後冒険的な事業と投資で父から受け継いだ富を増やします。映画制作者として、また航空機製造、航空会社、エレクトロニクス、メディア、製造、不動産、石油掘削の企業家として、最も富裕な億万長者の1人であったヒューズは、その財産の多くを医療や医学研究の慈善目的に投じました。しかし、晩年は異常な行動や人前に姿を見せない生活で知られるようになります。ヒューズの長年の友人であったハリウッドスター、エヴァ・ガードナーはその自叙伝の中で、この成功華々しい飛行家について「痛々しいほどに用心深く、徹底的に謎めいていて、これまで出会った誰よりも(中略)エキセントリック」と表現しています。
1905年
12月24日:米国テキサス州ハリス郡に生まれる。
1930年
11月15日:戦争時のパイロットを描いた映画『地獄の天使(原題:Hell’s Angels)』を制作・発表。初期の発声(トーキー)映画の1つ。撮影には100機を超える航空機が使用された。
1935年
9月13日:H-1機を操り、カリフォルニア州サンタアナ近くの自身のテストコースで陸上飛行機の最高飛行速度記録、352マイル(566 km)/時を樹立。
1937年
1月19日:自らが持つアメリカ大陸横断飛行の最速記録を更新。カリフォルニア州バーバンクを離陸後7時間28分25秒でニュージャージー州ニューアークに着陸。322マイル(518 km)/時の平均対地速度を達成。
1938年
7月14日:ロッキード14 Nスーパーエレクトラで世界一周飛行の最速記録を更新(3日と19時間14秒)。
ロンジンのシデログラフにより、パイロットが飛行時に星を基準に恒星時を計測することを可能にした。このモデルは、1938年7月の世界一周飛行で使用されたハワード・ヒューズの機内にも搭載されていた。
ハワード・ヒューズとノースロップ・ガンマ機。ニュージャージー、ニューアーク空港にて。1936/1/14撮影